今日の記事はあんまり読んで欲しくないけど、自分の忘備録用なので興味がある方だけどうぞ。
小野寺S一貴さんのこちらのブログを読ん私も非常に腑に落ちました🔻🔻
自殺は多くの人にショックと悲しみを与える。
っていうこの一文に全てが集約されていると思いました。
私は13年前、弟を自死で亡くしています。
まさに三浦春馬君とほどんど同じと言っていいくらい、その状況が似ていて色々思い出しちゃったよ。
13年も経った今でも悲しみが尽きることはないんだなって分かりました。こんなに時間が経っても、悲しみを味わい尽くすには程遠い距離にいるのが分かってしまった。
正直いうと、私自身もね 5月とか6月とかホント「死んだほうがいいのかな」「死にたい」っていうくらい思いつめてて。
誰からの連絡も一切遮断して、連絡をくれても素っ気なかったり既読スルーしたりしてだいぶ心配をかけてるんだろうなとは思ったけど
悩みの渦中にいるときはそれが精一杯で、やはり周囲への配慮もできなくて当たり前だよね。できてたら死なないっていうの。
私は弟の時の経験があるから
自死を選んだ場合、そのあとどうなるかをよく知ってるから、心の底では絶対に自死を選ばないって決めてる。
最後に会話をしたのも私。
結局は弟を両親が発見して、職場にいた私は電話がかかってきて慌てて家に戻った。両親はすでに病院にいて、私もすぐに病院へ行く予定だったのだけど。
家に帰ったら、弟の残骸というか。。。まだ生ぬるく残ってて、その跡も残ってて。
リアルだか夢なのか分からないくらいわたしも彷徨ってたと思う。
急いで病院に行って、母が「生き返って!って言ったら、少しだけ生き返っていけるかなと思ったんだけどね」そんなようなことを言ってて、それは今でも忘れられないかな。ぎゅーって胸が苦しくなって。人って本当に窮地にいる時、生き返ることに祈りを捧げるし、生き返ることを信じるんだよ。
自死で亡くなったあと、周囲ではどんなことが起こるかというと。
まず、事件性がなかったか警察が家に来て検証します。淡々としたもので、それを私はぼんやり眺めてました。
そして、家族で弟のお葬式について色々決めていきます。
大切に育てた自分の子供のお葬式の喪主を、両親がするのを私は横でただただ見るしかないのです。
そして両親も私も、来てくれた方々へ挨拶回りをします。
お葬式が終わったも忙しい時間が続き(この忙しさに助けられます。)
役所へ手続きをしに行きます。
死亡手続きです。これを父がしにいく時、私は付いていく!と言って一緒に行きました。この時の父の気持ちを考えたら、、。車の中は無言。いつになっても無言だった気がします。私は何があっても生きるって決めた時だったと思います。
四十九日が経って、一周忌、三周忌と、時間が経つにつれ記憶もだんだんとゆるくなっていった時。
最近訃報を聞くことが多かったので、人は自分の経験と重ね合わせてしまうものなんだなって。
病気で生きられなかった命も、自死で生きられなかった命も、どちらも生きたくても生きられなかった命です。
私は自死についていいも悪いもジャッジはありません。
でも先述の通り人に与えるショックが測りきれないのです。大きすぎます。
残された私たちは
「生きられなかった人の分も、一生懸命生きよう」「生きられなかった人たちの分まで、楽しむよ」と
知らない内に、無意識になにか正解のようなものを追い求めそれを背負ってしまいます。
その人の分まで、人生を楽しむよと言いながら
心のどこかでは助けられなかったことに罪の意識を感じ、自分は幸せになってはいけないと頑なに信じてしまう。
楽しそうにしてはいけない、喪に服さなければ。
忘れたり思い出したりを繰り返し、自分の幸せが置いてけぼりになりがちです。
何年経っても、忘れることはないよね。
落ち込んだ日には幸せになることをいけないことだと今だに思っていたんだって気づきます。
そして気付くたびに手放す。
私は弟が亡くなった時、心底思ったんです。
人は、生きたいように生きている。
ただそれだけなんだって。
周りの人はギャーギャー言いすぎ。騒ぎすぎ。(当時の私がそう。)
これがいいからとなにかを勧めたり、良くなるようにこうしたらどうか?と提案したりって弱っている人からしたら恐怖でしかない。
その人自身をちゃんと見てないもんね。でもその時は良かれと思ってやっていたから気づかなかったし結局それはコントロールという圧で、その人自身を押し込めようとしていたんだって分かりました。
そして、亡くなって初めて
周りがどう言おうが言わまいが
死ぬ時は死ぬ。
人は生きたいように、自分で選んで生きている。
自分で決めているんだって思いました。
逆に、私がその立場でもそうだと思う。
誰かが言ったから、決めたとかそうしたとかではなく。
自分で決めたことなんだ。だから放っておいてくれ。あなたはあなたの人生を生きてくれ、って。
これは突き放してるとか冷たいとかではなく、なんていうか ただ本当に
人は自分の生きたいように生きてるんだっていう結論にたどり着くだけなんだけど。
結局、話は戻るのだけど私はどうして自死を選ばなかったのかというと
既読スルーしても連絡をくれ続けた友人がいたから。うーん、違うかな。
「死のうと思ってた。」って
彼女に弱音を言えたからだな。そしたら彼女は「そうだと思ってた。泣」って返信をくれて
私それがなんかすごーーーーくホッとしたし嬉しかったんだよね。
叱るでもなく、騒ぐでもなく、心配するでもなく、同情するでもなく
ただ弱音を受け入れてくれたっていう安堵感。
自分が弱音を吐けること、誰かに聞いてもらう訳でなくても
自分が自分で聞いてあげればいい。
誰かに弱音を言える人はすごい人です。
自分で自分を救うことができる人です。
そんなことを徒然思いました。
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